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京都伏見のうつりかわり ‐江戸時代‐町の自治
政治都市から商業都市へとかわった後も伏見は京都の商品流通を支える畿内きっての重要な都市の一つであり、伏見奉行によって統率された天領(江戸幕府直轄の領地)でした。
山代一国を支配する京都町奉行から独立した行政区で、その支配地域は、伏見市街と周辺の農村-堀内村、向島村、六地蔵村、三栖村、毛利治郎村、景勝村、大亀谷村、深草村‐で伏見廻り八ヶ村とよばれていました。
また、伏見町には石高がなく、市街屋敷等の宅地に対する地子も免除されていました。
伏見奉行所 伏見奉行所は、初め清水谷に設けられていましたが、大変不便なこともあって、小堀時代、寛永二年七月、富田信濃守邸跡(工兵第十六聯隊→桃陵団地)に移されました。
豊臣政権時代、五奉行の一人、前田玄以の支配下にあった伏見は、関ヶ原合戦(慶長五年)後は、松平下野守の支配に属し、その家臣舎人源太左衛門が奉行所を開きました。
慶長年間から元和五年(1619)までの奉行は、500~800石程度の武士二人ずつが城代の指揮の下で城下町の民政を管掌しましたが、元和六年(1920)三千石の禄高をもつ山口駿府守直之が任ぜられてからは、奉行は一人となり元和九年の廃城まで市政を担当したのですが、これらの城下町時代の奉行については不明な点が多く、後の伏見奉行と同一視することはできません。
元和九年(1623)就任した小堀遠見守政一は、一万石大名としての名声が高く、伏見奉行の初めといわれていますが、彼は伏見の町を支配する一方で、京都所司代を補佐するより広域な代官奉行でした。
正保四年(1647)に就任した水野石見守忠貞は、初めて与力住人、同士五十人を設置し江戸時代を通じての伏見奉行の原型をつくりあげ、伏見の支配に専念し、そういう意味では彼が最初の伏見奉行といえましょう。
職制 奉行
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与力(十人)
川方、寺社方、勘定方、山林方、極印改、盗賊改、地方寺社方、地方盗賊改、御囲米掛、目安方
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同心衆(五十人)
小頭、目付、居物、供方、書記方
法令下達法 伏見奉行から町民、百姓に公布する幕府の法令は、高札に掲示されます。
その觸書(ふれがき)や奉行所掟觸書は、町村役人を通じて各組長へ、組長から更に各町へ、そして各戸へ順達されました。
伏見に最初に高札が設けられたのは、慶長五年十月に、京町二丁目北の辻、讃岐町に建てて掟書を掲示して関ケ原乱後の町民を安堵させたものです。
その後讃岐町は札の辻と呼ばれています。他に京橋、直違橋、豊後橋、肥後橋、大亀谷、六地蔵、竹田口、追手筋に八ヶ所に設けられていました。
また、伏見奉行は、一カ月に四回程、定例日を設け、公事訴訟の裁許を行ったり、牢屋敷(新町三丁目西裏、憲兵隊→国税局独身寮)を管理し、処刑場を設けて一貫した司法権を行使していました。
町役人 伏見築城より形成された伏見南北二十八町には二十八名の年寄がおかれ、町務を執り行っていましたが、天和年間に次のような組織が確立されました。
(組織図略)
町内とりきめごと 水防 出水のとき、宇治川支流の各橋上に酒造仲間が酒桶を提供し、これに水をはって橋梁流出を防ぐ。
辻番 各町内に番小屋を設置、各戸主、雇人が順番に昼夜交代する。常置しない町は、各戸順に務め、柝(ひょうしぎ)を打ち鼓をたたいて夜間時刻を知らせる。
町家(天保十三年の定書あり) 式臺(しきだい)、破風、路次、門を禁止。由緒なき寺院の破風造りを禁止。家屋敷を買得、附替の時は年寄、組頭、行事が臨席する。
毎年、春、産神への御千度回りの時は、酒三升、肴一貫二百匁を用意。子供への菓子は二百文。
伏見騒動 伏見奉行の小堀政方(安永七年~天明五年)の虐政ぶりは言語に絶するもので伏見の町民の生活は困窮し、その悲惨さは目を覆うばかりで火の消えた様な町になりました。
この暴政に抵抗して、文珠九助、丸屋久兵衛、麹屋伝兵衛、伏見屋清左エ門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋権兵衛ら七人の伏見の町民が命をかけた越訴により、勝利を得た事件が世にいう伏見騒動です。
この事件は七人の町民の長い年月にわたる画策ののち、天明五年(1785)九月、伏見下板橋二丁目の元年寄文珠九助と京町北七丁目の丸屋九兵衛が決死の覚悟で江戸に入り、松平伯耆守の下城を待ち受けて、「御訴訟のものに御座候」と目安を指し出し、牢に入れられたことから始まります。
その後三回の追訴を指し出し、全部で五十二か条にも及びます。
訴えられた人は、奉行所役人とその下で働いた町人たちで、その内容は、小堀政方の御用金調達や冥加金、運上金の吸い上げに対するもので、奉行所役人の悪徳行為自体が幕政の可否を問われることになったことを明言しています。
この訴えの結果、天明五年十二月二十七日、小堀政方は伏見奉行を罷免されました。が、その後も事態ははかどりませんでした。
天明七年、松平定信が老中となってから江戸の評定所で天明八年正月十四日から十九回も吟味が行われ、小堀政方は、領地没収、大久保加賀守預け、家士財満満平八郎は死罪、小堀家家来、伏見奉行与力、同心衆も処罰されるという厳しい裁決がくだされました。
七人の同志のうち五人までもが死去(一人は江戸、四人は牢死)するという決死の訴えは伏見町人による一致した支援によって成就したものです。
田沼誠二が重視した都市の負担強化という政策が、伏見町人の激しい抵抗によって打ち破られた事件でした。
このように、伏見奉行によって政治的に独立した地域を形成した伏見も、やがて幕末になり、政局が京都を舞台に動き出すと、伏見でも種々の事件が起こってくるようになります。
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京都伏見のうつりかわり-江戸時代―政治都市から商業都市へ
関ケ原の戦い 秀吉没後の慶長五年(1600)関ケ原合戦が起こり伏見城でも激しい攻防戦が繰り広げられて城は焼失してしまいました。
また、防御のため故意に民家は焼き払われ、西軍大名屋敷も焼き打ちされ伏見市街の大半は焼失し、兵火を受けた町民たちは一時離散し、町は混乱しました。
合戦の後凱旋した家康が山科神無の森で休憩していたとき召し出しに応じた三雲久左衛門、高田忠兵衛、坪井市右衛門の三人は伏見惣町の安全を保証するという九月三十一日付の朱印状をもらい下げました。
家康は伏見に戻り町の再興を図り再び徳川氏の政治軍事上の中心点として重視されるのです。
しかし元和九年(1623)京都を守るために淀城の建設が行われ大阪城の再建が進むと廃城となり、大名たちは引き揚げ、伏見は三十年という短い政治都市としての生涯を終え、城下町は衰退の道をたどっていきました。
大名屋敷跡は町家や社寺の用地となり両替町通の一筋西に新町通ができ、京町通と共に主要な三幹線が形成されたのです。
政治的都市としての伏見はわずか三十年という短い命でしたが、陸上交通では大阪と京都を結ぶ中継点、水上交通では淀川水運による西国筋からの品物の流通の中心点という地理的な条件を活かして商業港湾都市へと繁栄し、町人たちが活躍する活気のある町となっていきます 。
水路 淀川 秀吉によって宇治川の水路が変更されたことによって淀川の水上交通が京都と伏見そして西国方面を結ぶ大動脈となりました。
淀川舟運は過書座(幕府から関所通貨の許可書をもらった者の仲間)を組織し、幕府に運上金を納めていた過書船で独占されたために、これを見かねた江戸からの見廻り役人若年寄の米倉丹波守が、坪井組与頭坪井祐佐を招いて伏見再興の策を尋ねたところ、祐佐は商人達が共同出資をして伏見船を作り運航させることを進言しました。
そして伏見町人津国屋長右衛門や薬屋善四郎などの富商や貨物運搬業者達が出資して十五万石船を二百艇も作り伏見船が運航されるようになったのです。
この伏見船は、小船で大変敏速だったので、過書船に対抗でき、伏見、六地蔵からの荷物を引き受け、宇治、淀、鳥羽、横大路や木津の淀川支流筋に運送しましたし、また、大阪、伝法や尼崎と伏見の間の貨物輸送にも大きな役割を果たしました。
高瀬川 慶長十六年(1611年)に角倉了以が全長5648間と二尺、川幅が平均四間の高瀬川を用いたので、大阪からの通船は伏見から北上して直接二条まで行けるようになりました。 角倉家は三条木屋町と伏見掘の口に番所を作り運航船を監視したのです。船数は九月から翌年四月までが一番多く159艘で、そのうち伏見の船が110艘もありました。伏見方面の船頭さんは700余人おり、木挽町、三栖、竹田口などの高瀬川に沿った場所に密集し住まいし、特に木挽町筋は角倉番所を中心にして船頭さん達の町が作られたのです。
高瀬川の開通や過書船の運航にまつわる伏見住民の力強さが伺えるいくつかの事件があります。それを少し述べてみましょう。
その一 高瀬川の舟運が軌道にのってくると物資の輸送は高瀬舟に集中しましたので、陸運業者は大きな打撃を受けました。
そしてこのままでは失業問題が起こってくるので伏見組車方惣中は角倉家を相手取って訴訟を起こしました。その結果、高瀬舟を三十六艘に制限し、四条木屋町まで薪ばかりを運送することに取り決められたのですが、いつの間にか約束は破られるようになりました。そこで再び寛文九年、伏見奉行所へ訴状を出し、角倉家に痛手を与えました。
その二 高瀬川が開かれるとき、伏見竹田村では耕地の損失や灌漑用水の欠乏等を恐れて河川の開削に反対する人が多数いました。
角倉了以は幕府の公認の事業にも関わらず土地を収用する折、権力に頼らず情を尽くして説明して誓約書まで入れたそうです。
その三 過書船では過書船仲間の横暴が激しくなあり、船賃は高くなり、そのため京都の物価が急激に上昇したので貨物諸仲間(樵木屋、米問屋、材木屋仲間が主)は生活に困り陳述したのですが、過書船奉行は取り上げてくれません。そこで元和四年正月、伏見の町人小林勘次が伏見惣中の代表として幕府に直訴しました。幕府はこれを取り上げて伏見奉行に調べさせたところ、過書船の不正があばかれ、旧制を守るようにようにと朱印状を与え、貨物諸仲間が勝利を得たのです。
陸路 秀吉によって伏見、竹田、大阪、大津、宇治街道等京都、大阪や奈良へ通じる幹線道路が整備され、活気を帯びていき、伏見伝馬所が設置され、ここには常に百匹の伝馬がつながれていたということです。また、伏見南浜と六地蔵札ノ辻会所も設けられました。
この伝馬所があった為、参勤交代の両国大名達は必ず伏見に立ち寄り、伏見には四つの本陣と二つの脇本陣、いくつかの大名屋敷がありました。
陸の輸送機関としては伏見車方が活躍し、聚楽組、六地蔵組からなり、その数は117軒、牛257匹を駆使して明治十年まで米穀、材木の輸送を一手に引き受けたということです。
総括 このような水運と陸運の発達は伏見の経済的な発展を促し、この活動は町人の共同的組織である問屋仲間で進められていったのです。問屋仲間は伏見三仲間と言われる樵木屋、材木屋、米問屋を始め、大工仲間刃物鍛冶仲間、京橋水上仲間、酒屋仲間、竹屋仲間、伏見車方、塩生魚など、109の仲間で組織されており、この人々は職業別に一かたまりとなって住んでいました。
この地域的連帯こそが経済活動の根幹となっていたのです。
仲間の構成 構成員 十名未満から百名以上まで様々ですが、多勢の場合は地域的に再構成をあい、組の名前は方位名や地域名をつけました。
(例) 大工仲間ー上(大亀谷)中、下組 木割仲間ー南、北組 扇骨仲間ー東、西、南、北組 伏見車方ー聚楽、京橋、六地蔵組 紙漉職仲間ー聚楽、南組 植木屋仲間ー堀詰、小豆屋町、清水町、丹波橋、土橋、阿波橋、柿木浜組
役人 仲間を代表する者ー年寄、年番、年行事、行事、惣代、肝煎、触頭 補佐役ー組頭、月行事 と呼ばれ、袴料、樽肴料という収入がありました。
仲間の分担課徴 冥加銀や色々の公役負担が課せられます。 (例) 火消人足の差し出し、造酒屋の出水時の公儀橋への卸用桶の拠出、 伏見車方の卸米輸送、樫木屋仲間の卸仕置用道具の製出
仲間の寄合 仲間全体の意思の決定が寄合によってなされます。定例の寄合、臨時の寄合、全員、組、役員の寄合などです。 (例) 「定例の寄合」春秋の二回開かれます。 役員の選出、定書の追加、修正、品替訴加等の議定と儀式、作料、定値の申し合わせ、会計報告などをしました。
仲間の定書 仲間の組織や運営について仲間全体で相談し決めたきまりを文章にしたもので、定、定法、淀式目と呼ばれるものがあります。 (例)「仲間外業者の営業侵害の監視について」 仲間たちはお互いに手を組んで他の地域の業者の侵入を拒み、自分達の生活を守ったのでした。
まとめ このように水路、陸路における京都、大阪の中継点となった伏見は商業都市として発展し町人たちが生き生きと活躍する町となったのです。
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