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京都伏見のうつりかわり-江戸時代―政治都市から商業都市へ
関ケ原の戦い
秀吉没後の慶長五年(1600)関ケ原合戦が起こり伏見城でも激しい攻防戦が繰り広げられて城は焼失してしまいました。
また、防御のため故意に民家は焼き払われ、西軍大名屋敷も焼き打ちされ伏見市街の大半は焼失し、兵火を受けた町民たちは一時離散し、町は混乱しました。
合戦の後凱旋した家康が山科神無の森で休憩していたとき召し出しに応じた三雲久左衛門、高田忠兵衛、坪井市右衛門の三人は伏見惣町の安全を保証するという九月三十一日付の朱印状をもらい下げました。
家康は伏見に戻り町の再興を図り再び徳川氏の政治軍事上の中心点として重視されるのです。
しかし元和九年(1623)京都を守るために淀城の建設が行われ大阪城の再建が進むと廃城となり、大名たちは引き揚げ、伏見は三十年という短い政治都市としての生涯を終え、城下町は衰退の道をたどっていきました。
大名屋敷跡は町家や社寺の用地となり両替町通の一筋西に新町通ができ、京町通と共に主要な三幹線が形成されたのです。
政治的都市としての伏見はわずか三十年という短い命でしたが、陸上交通では大阪と京都を結ぶ中継点、水上交通では淀川水運による西国筋からの品物の流通の中心点という地理的な条件を活かして商業港湾都市へと繁栄し、町人たちが活躍する活気のある町となっていきます 。
水路
淀川
秀吉によって宇治川の水路が変更されたことによって淀川の水上交通が京都と伏見そして西国方面を結ぶ大動脈となりました。
淀川舟運は過書座(幕府から関所通貨の許可書をもらった者の仲間)を組織し、幕府に運上金を納めていた過書船で独占されたために、これを見かねた江戸からの見廻り役人若年寄の米倉丹波守が、坪井組与頭坪井祐佐を招いて伏見再興の策を尋ねたところ、祐佐は商人達が共同出資をして伏見船を作り運航させることを進言しました。
そして伏見町人津国屋長右衛門や薬屋善四郎などの富商や貨物運搬業者達が出資して十五万石船を二百艇も作り伏見船が運航されるようになったのです。
この伏見船は、小船で大変敏速だったので、過書船に対抗でき、伏見、六地蔵からの荷物を引き受け、宇治、淀、鳥羽、横大路や木津の淀川支流筋に運送しましたし、また、大阪、伝法や尼崎と伏見の間の貨物輸送にも大きな役割を果たしました。
高瀬川
慶長十六年(1611年)に角倉了以が全長5648間と二尺、川幅が平均四間の高瀬川を用いたので、大阪からの通船は伏見から北上して直接二条まで行けるようになりました。 角倉家は三条木屋町と伏見掘の口に番所を作り運航船を監視したのです。船数は九月から翌年四月までが一番多く159艘で、そのうち伏見の船が110艘もありました。伏見方面の船頭さんは700余人おり、木挽町、三栖、竹田口などの高瀬川に沿った場所に密集し住まいし、特に木挽町筋は角倉番所を中心にして船頭さん達の町が作られたのです。
高瀬川の開通や過書船の運航にまつわる伏見住民の力強さが伺えるいくつかの事件があります。それを少し述べてみましょう。
その一
高瀬川の舟運が軌道にのってくると物資の輸送は高瀬舟に集中しましたので、陸運業者は大きな打撃を受けました。
そしてこのままでは失業問題が起こってくるので伏見組車方惣中は角倉家を相手取って訴訟を起こしました。その結果、高瀬舟を三十六艘に制限し、四条木屋町まで薪ばかりを運送することに取り決められたのですが、いつの間にか約束は破られるようになりました。そこで再び寛文九年、伏見奉行所へ訴状を出し、角倉家に痛手を与えました。
その二
高瀬川が開かれるとき、伏見竹田村では耕地の損失や灌漑用水の欠乏等を恐れて河川の開削に反対する人が多数いました。
角倉了以は幕府の公認の事業にも関わらず土地を収用する折、権力に頼らず情を尽くして説明して誓約書まで入れたそうです。
その三
過書船では過書船仲間の横暴が激しくなあり、船賃は高くなり、そのため京都の物価が急激に上昇したので貨物諸仲間(樵木屋、米問屋、材木屋仲間が主)は生活に困り陳述したのですが、過書船奉行は取り上げてくれません。そこで元和四年正月、伏見の町人小林勘次が伏見惣中の代表として幕府に直訴しました。幕府はこれを取り上げて伏見奉行に調べさせたところ、過書船の不正があばかれ、旧制を守るようにようにと朱印状を与え、貨物諸仲間が勝利を得たのです。
陸路
秀吉によって伏見、竹田、大阪、大津、宇治街道等京都、大阪や奈良へ通じる幹線道路が整備され、活気を帯びていき、伏見伝馬所が設置され、ここには常に百匹の伝馬がつながれていたということです。また、伏見南浜と六地蔵札ノ辻会所も設けられました。
この伝馬所があった為、参勤交代の両国大名達は必ず伏見に立ち寄り、伏見には四つの本陣と二つの脇本陣、いくつかの大名屋敷がありました。
陸の輸送機関としては伏見車方が活躍し、聚楽組、六地蔵組からなり、その数は117軒、牛257匹を駆使して明治十年まで米穀、材木の輸送を一手に引き受けたということです。
総括
このような水運と陸運の発達は伏見の経済的な発展を促し、この活動は町人の共同的組織である問屋仲間で進められていったのです。問屋仲間は伏見三仲間と言われる樵木屋、材木屋、米問屋を始め、大工仲間刃物鍛冶仲間、京橋水上仲間、酒屋仲間、竹屋仲間、伏見車方、塩生魚など、109の仲間で組織されており、この人々は職業別に一かたまりとなって住んでいました。
この地域的連帯こそが経済活動の根幹となっていたのです。
仲間の構成
構成員
十名未満から百名以上まで様々ですが、多勢の場合は地域的に再構成をあい、組の名前は方位名や地域名をつけました。
(例) 大工仲間ー上(大亀谷)中、下組 木割仲間ー南、北組 扇骨仲間ー東、西、南、北組 伏見車方ー聚楽、京橋、六地蔵組 紙漉職仲間ー聚楽、南組 植木屋仲間ー堀詰、小豆屋町、清水町、丹波橋、土橋、阿波橋、柿木浜組
役人
仲間を代表する者ー年寄、年番、年行事、行事、惣代、肝煎、触頭 補佐役ー組頭、月行事 と呼ばれ、袴料、樽肴料という収入がありました。
仲間の分担課徴
冥加銀や色々の公役負担が課せられます。 (例) 火消人足の差し出し、造酒屋の出水時の公儀橋への卸用桶の拠出、 伏見車方の卸米輸送、樫木屋仲間の卸仕置用道具の製出
仲間の寄合
仲間全体の意思の決定が寄合によってなされます。定例の寄合、臨時の寄合、全員、組、役員の寄合などです。 (例) 「定例の寄合」春秋の二回開かれます。 役員の選出、定書の追加、修正、品替訴加等の議定と儀式、作料、定値の申し合わせ、会計報告などをしました。
仲間の定書
仲間の組織や運営について仲間全体で相談し決めたきまりを文章にしたもので、定、定法、淀式目と呼ばれるものがあります。 (例)「仲間外業者の営業侵害の監視について」 仲間たちはお互いに手を組んで他の地域の業者の侵入を拒み、自分達の生活を守ったのでした。
まとめ
このように水路、陸路における京都、大阪の中継点となった伏見は商業都市として発展し町人たちが生き生きと活躍する町となったのです。